農薬空中散布と「禁止」の実態:健康リスク・EU規制・日本の手続きを整理

「農薬の空中散布は禁止されているのでは」という声を耳にすることがあります。実際には、日本では登録農薬と一定の手続きのもとで無人航空機による空中散布が認められている一方、欧州連合(EU)では空中散布そのものを原則禁止とする指令が存在します。本記事では、この「禁止」という言葉の背景にある国際的な規制動向と健康リスクへの懸念を整理したうえで、日本国内での法規制、安全ガイドライン、周辺住民への配慮、実務上の運用管理までを解説します。

目次

農薬の空中散布を巡る安全性と国際的な「禁止」の動向

「空中散布は禁止」という言葉が使われる背景には、欧州の規制動向と、農薬の吸入による健康影響への懸念があります。まずはこの2つの論点と、日本国内における住宅地周辺での散布制限のあり方を整理します。「禁止」という表現が具体的に何を指しているのかを分けて理解することが、この後の法規制や安全対策の内容を正しく読み解くうえでの土台になります。

EUにおける空中散布の原則禁止措置と日本国内の現状・課題

欧州連合では、持続可能な農薬使用に関する指令(2009/128/EC、通称SUD指令)のもとで、農薬の空中散布は原則として禁止されています。同指令では、地上散布による現実的な代替手段がない場合や、加盟国が空中散布用に許可した農薬を用い、所定の条件を満たす場合に限り、例外的に空中散布が認められる枠組みになっているとされています。これに対して日本では、農薬取締法に基づき無人航空機による散布として登録された農薬を、航空法上の許可・承認を得たうえで使用するという、登録制と手続き制を組み合わせた規制の枠組みが採用されており、空中散布そのものを一律に禁止する制度にはなっていません。この違いは、地上散布が困難な急傾斜地や中山間地が多い日本の地理的条件と、労働力不足を背景としたドローン活用のニーズの高さが関係していると考えられますが、諸外国との規制の違いを踏まえたうえで、国内での安全対策のあり方を検討していくことが今後の課題といえます。

空中散布に伴う健康リスク:経気摂取による毒性の影響と周辺環境への懸念

農薬の体内への取り込み経路には、口から入る経口摂取、皮膚から吸収される経皮摂取、そして呼吸によって取り込まれる経気摂取(吸入摂取)があります。一般に、経気摂取で取り込まれた物質は肺から直接血液に入るため、消化器官や肝臓での代謝を経る経口摂取に比べて、体内への影響が大きくなりやすいとされています。空中散布では、薬剤が微細な粒子となって大気中に広がるため、対象区域の周辺にいる人が意図せず薬剤を吸い込んでしまう可能性がゼロではありません。こうした懸念を踏まえ、環境省は無人ヘリコプター等により散布される農薬について、大気経由での人への健康影響に関する評価手法を検討する事業を実施してきており、周辺環境への配慮は空中散布を実施するうえで継続的に検討されるべき論点として位置づけられています。

住宅地や公共施設(学校・病院)周辺における散布の制限と禁止の是非

日本では、住宅地や学校・病院等の公共施設の近傍で農薬を散布する際、農林水産省・環境省が示す「住宅地等における農薬使用について」という通知に沿った配慮が求められています。空中散布についても、実施区域の周辺にこうした施設がある場合には、施設の管理者・利用者・居住者への事前の情報提供が義務づけられています。ただし、これらはあくまで実施にあたっての配慮義務であり、日本の制度上、住宅地や公共施設周辺での空中散布そのものを一律に禁止する規定にはなっていません。欧州のように原則禁止とする制度を採用すべきか、日本のように登録と手続きを通じた個別管理を続けるべきかは、農業の担い手不足や地理的条件、健康リスクへの評価をどう重み付けするかによって見解が分かれる論点であり、今後の政策論議の対象になり得ます。実施主体の立場からすれば、こうした配慮義務を単なる形式的な手続きとしてではなく、周辺住民との信頼関係を維持するための実質的な取組として捉えることが、長期的に空中散布という手法を持続的に活用していくうえでの前提になると考えられます。

日本における無人航空機による散布の法規制と許可手続き

日本国内で無人航空機による農薬散布を行うには、航空法と農薬取締法という異なる法律への対応に加え、重要施設周辺の飛行を制限する法律への理解も欠かせません。ここでは基本的な法規制の枠組みを整理します。手続きの詳細な流れは他の記事に譲り、本記事では「禁止」というテーマに直結する飛行禁止区域の考え方を中心に確認します。

航空法・農薬取締法に基づくドローンおよび無人ヘリの飛行ルール

無人航空機による農薬散布は、機体の飛行そのものを規制する航空法と、使用する薬剤とその使用方法を規制する農薬取締法という、性質の異なる2つの法律の対象になります。ドローン(無人マルチローター)と無人ヘリコプターのいずれであっても、この基本構造は共通しています。航空法は「どこを、どのように飛ぶか」を、農薬取締法は「何を、どう使うか」を規律するものであり、両方の要件を同時に満たして初めて適法な散布が可能になります。それぞれの手続きの詳細な流れについては、無人航空機による空中散布全般を扱った既存の記事で整理していますので、本記事では要点にとどめます。

小型無人機等飛行禁止法に基づく重要施設周辺の上空飛行禁止区域

農薬散布を目的とする飛行であっても見落とされがちなのが、「重要施設の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律」(小型無人機等飛行禁止法)です。この法律に基づき、国会議事堂や首相官邸、防衛関係施設といった対象施設とその周囲おおむね300メートルの周辺地域の上空では、小型無人機等の飛行が原則禁止されています。違反した場合は1年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金の対象となり得ます。対象施設の管理者の同意を得た飛行や、土地の所有者・占有者の同意を得た飛行などは例外として認められていますが、その場合も事前に管轄の警察署等への通報が必要です。農地の近くに自衛隊駐屯地などの対象施設が指定されているケースもあるため、実施予定の圃場が対象施設周辺地域に該当しないか、事前に確認しておくことが求められます。この法律は農薬取締法や航空法とは別の法体系に基づくものであり、農薬の散布計画を立てる段階では見落とされやすい点にも注意が必要です。

国土交通省への飛行許可・承認申請と機体登録(DIPS)の義務化

無人航空機による空中散布を行うには、機体の登録、国土交通大臣による飛行許可・承認、飛行計画の通報といった、ドローン情報基盤システム(DIPS)を用いた一連の手続きが必要です。これらの具体的な申請方法や技能証明の取得要件については、無人航空機の手続き全般を扱った既存の記事で詳しく解説しているため、そちらをあわせてご確認ください。

安全な散布を実施するためのガイドラインと事故防止策

法令上の手続きに加えて、実際の散布現場では国と都道府県が定めるガイドラインに沿った運用が求められます。ここでは基本的な枠組みと、都道府県ごとの取組を紹介します。法律による一律の禁止とは異なり、こうしたガイドラインは運用上の指針として位置づけられている点も押さえておきたいポイントです。

農林水産省が定める「農薬の空中散布に係る安全ガイドライン」の遵守

農林水産省は、無人ヘリコプター用と無人マルチローター用それぞれの空中散布に係る安全ガイドラインを定めており、令和5年4月1日には一部改正が行われています。これらのガイドラインは法的拘束力を持つものではありませんが、農薬の選定や被害防止対策など、安全かつ適正な散布を行ううえで参考とすべき基準として位置づけられています。法律による一律の「禁止」ではなく、実施主体の自主的な取組を促す仕組みである点が、EUの原則禁止的なアプローチとの大きな違いといえます。

各都道府県(群馬・岡山・茨城等)独自の安全対策指針と報告体制

都道府県も、国のガイドラインを踏まえた独自の安全対策指針を策定しています。群馬県では、無人航空機を利用した農薬空中散布安全対策連絡会議を年1回程度開催し、関係機関・団体と連携して事故の未然防止に取り組んでいます。茨城県でも同様に、無人ヘリコプター・無人マルチローターそれぞれの安全対策ガイドラインを策定し、散布計画書・実績報告書・事故報告書の提出先を明確にしています。都道府県ごとに指針の詳細や提出様式は異なるため、実施を予定する地域の農薬指導部局に個別に確認することが実務上の基本になります(岡山県については、本記事の調査範囲では具体的な指針の内容を確認できていません。実施予定の場合は岡山県の農薬指導部局に直接ご確認ください)。

無人航空機(ドローン・無人ヘリ)の特性に応じた安全管理基準

無人ヘリコプターとドローンでは、機体の規模や下降気流(ダウンウォッシュ)の強さが異なるため、安全管理基準にもそれぞれの特性に応じた違いがあります。飛行高度や散布時の風速の目安、散布装置の点検方法など、機体特性を踏まえた基準の詳細については、無人ヘリとドローンの比較を扱った既存の記事でより詳しく整理しています。

周辺環境・住民への配慮と情報提供の義務

空中散布は、実施区域の外にも影響が及ぶ可能性があるため、周辺の住民や環境への配慮が制度上求められています。ここでは情報提供の義務と、事故発生時の対応、ドリフト対策の考え方を整理します。これらの配慮義務は、空中散布を「禁止」ではなく「管理された形で実施可能」とする制度全体を支える重要な要素になっています。

公共施設管理者、居住者、養蜂家、および有機農業者への事前通知

実施区域及びその周辺に学校・病院等の公共施設、家屋、蜜蜂の巣箱、有機農業が行われているほ場等がある場合には、実施主体が居住者・施設管理者・養蜂家・有機農業に取り組む農業者等に対し、散布の日時・目的・使用農薬の種類・連絡先を十分な時間的余裕を持って情報提供することが求められます。この事前通知の義務は、空中散布に伴う健康被害や薬害への懸念に対応するための、制度上の重要な安全弁として位置づけられています。

事故発生時の報告義務とインシデント防止のための安全対策

散布中の飛散・流出や機体の不具合などによって事故が発生した場合、実施主体は都道府県の担当窓口へ速やかに連絡し、事故報告書を提出する義務を負います。無人航空機に関する重大な事故やインシデントについては、ドローン情報基盤システムを通じた国土交通省への報告も必要です。事故の未然防止には、飛行前の点検や気象条件の確認、周辺の障害物・危険箇所の共有といった日常的な安全管理の徹底が欠かせません。こうした報告体制の整備は、空中散布を一律に禁止するのではなく、事故情報を蓄積・共有しながら安全性を高めていくという、日本の規制の基本的な考え方を反映したものといえます。

飛散(ドリフト)防止対策と自然環境・生物多様性への影響配慮

風向・風速を踏まえた散布方法の選択や、圃場・林地の端から一定の距離を確保してから散布を始めるといった対応は、ドリフトによる周辺作物への薬害や、水系・生態系への影響を抑えるための基本的な対策です。水産動植物への影響が指摘される薬剤も少なくないため、河川や養殖池への飛散・流入を避けることも、自然環境や生物多様性への配慮として重要な位置づけを持ちます。

実務における運用管理と最新の実施状況

最後に、日常的な運用管理の実務と、無人航空機による空中散布を巡る規制緩和の動向を整理します。実施現場では、飛行そのものの許可・登録に加え、日々の記録の作成・保存や薬剤管理といった地道な運用管理が、安全性を担保するうえで欠かせません。あわせて、規制が緩和される分野と強化される分野が併存する現状についても確認します。

飛行計画の通報、実施状況の報告、および飛行日誌の作成・保存

特定飛行に該当する空中散布を行う際は、事前に飛行の日時・経路等を記載した飛行計画をDIPSの飛行計画通報機能で通報し、飛行後は飛行記録・点検記録を飛行日誌に記載して保存することが求められます。これらの運用管理の具体的な手順は、無人航空機による農薬散布の手続き全般を扱った既存の記事で詳しく紹介しています。

無人航空機で使用可能な登録農薬の確認と適切な薬剤管理

散布に使用する薬剤は、農薬取締法上、無人航空機による散布として登録されているものでなければなりません。農林水産省が公表する「ドローンで使用可能な農薬」の一覧やラベル表示で個別に確認することが基本です。登録農薬の拡大に向けた国の取組についても、既存の関連記事で紹介しています。

農業分野における小型無人航空機の利活用拡大と規制緩和の動向

日本では、農業用ドローンの普及拡大に向けて、登録農薬の拡大や手続きの簡素化が段階的に進められてきました。一方で、重要施設周辺の飛行を制限する法律のように、安全保障上の観点から規制が強化される分野もあり、規制緩和と規制強化が同時に進んでいるのが実情です。空中散布に対する国際的な見方が分かれる中で、日本国内の制度がどのように変化していくかは、今後も注視すべき論点といえます。労働力不足が深刻化する農業現場においては、無人航空機の活用ニーズは今後も高まると見込まれる一方、健康リスクや周辺環境への配慮を欠いた拡大には慎重さが求められる、というバランス感覚が制度設計の根底にあると考えられます。

まとめ

農薬の空中散布を巡る「禁止」という言葉には、EUの原則禁止という制度的な背景と、経気摂取による健康リスクへの懸念という2つの側面があります。日本では空中散布そのものを禁止する制度にはなっておらず、登録農薬の使用と航空法上の手続きを組み合わせた枠組みのもとで実施が認められていますが、重要施設周辺の上空飛行を制限する小型無人機等飛行禁止法のように、別の観点からの制約も存在します。安全な散布を実現するには、国・都道府県のガイドラインを踏まえた運用に加えて、周辺住民や公共施設、養蜂家、有機農業者への事前の情報提供、事故発生時の適切な報告体制の整備が欠かせません。国際的な規制動向の違いを踏まえながら、日本国内での安全対策のあり方を継続的に見直していく姿勢が、今後さらに重要になると考えられます。

参考文献

この記事を書いた人

精密農業編集部

精密農業編集部は、農業の現場で起きる「うまくいかない」「判断に迷う」といった状況に対して、原因や条件を整理し、考え直すための材料をまとめています。

農家の方が自分の圃場や条件に照らして判断できるよう、事実・前提条件・注意点を中心に情報を構成しています。

リンク

https://arijics.com/molecule
https://arijics.com/info

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